ねこのひとりごと

自分の思いを言葉に乗せて

自分軸と他人軸

普通に生きる

私はこれまでずっと普通に生きたいと願っていた。

では、”普通”とは何か。”常識”とは何か。

ふと、この疑問が頭をよぎる。

 

今日、こんな出来事があった。

隣の席の犬さん。40代半ばの独身女性だ。

とてもヒステリックなところがあり、突然ものに当たったり、キレたりする。

私の適応障害の原因の一人でもある。

関係が良好のときは、頭をなでたり、隣からつついてきたりと距離が近い。

同性とはいえ、セクハラと言えばセクハラである。

そんな犬さんが、昨日から理不尽な要求を繰り返し、今日突如キレてきた。

しかも、生徒のいる前で。本当に信じられなかった。

その後もずっと不機嫌。私に対し、文句を言ってきたのだ。

さすがの私も思うところがあり、自分の思いを伝えたが、伝わらない。

場の空気も悪くなってきたため、私が謝りその場を収めた。

犬さんが退散してから、周囲に場の空気を乱したことを私から謝罪。

担任として自分のクラスの子がかわいいのは分かる。

しかし、ルールは犯してはいけない。

そう、ルールは絶対だ。

”規則”や”決まり”がどうではなく、自分のクラスの生徒が大切だという。

なんのための”決まり”なのだ。

 

人は一人ひとり考え方も価値観も違う。そのため、その人によって常識は異なる。

その人の常識、その人の普通がある。

だからこその優しさも、人間関係も生まれるのだろう。

しかし、違うからこそ最低限の規則や決まりがあるのではないだろうか。

そこを否定されてしまうと、何も始まらないし、生まれない。

お互いにいい気分はならない。

 

ものさし

人はみな自分のものさしでしか物事を判断できなということ。つまり、自分軸。

自分のものさしで他人を測ろうとしても測れるわけがない。

なぜなら、その人のものさしがあるからだ。

だから、まずは一人ひとり自分軸があり、他人軸とは交わり合わないということを理解しなければない。

 

常識がないなあ

普通じゃない

なんて言葉をよく聞く。実際、私も周りに対して思うこともある。

しかし、そんなときにふと不安になる。

もしかしたら、私も普通ではないのではないだろうか。

いや、まぎれもなくその通りだ。

どこかの誰かの中で、私は非常識な普通ではない人間なのだろう。

つまり、自分の常識は誰かの非常識であり、私の普通は誰かの異常なのだ。

分かってはいても、納得はできないときがある。

だけど、少しずつでもいいから自分とは正反対の人を受け止めよう。

非常識だと、異常だと、私のことを見ている人のことを受け入れよう。

 

こうして、私は少しでも成長することができるのではないだろうか。

 

しかし、それにしても辛いものがある。

どうして理不尽に言われつづけなければならないのだろう。

それが社会だと言えば、簡単なのだが、何か変わらないだろうか。

 

自分軸以外にも、他人軸の視点を持てる人が増えることを切に願う。

 

もっと、落ち着いた大人な人が増えますように。

みなさん、ともに成長していきましょう。