ねこのひとりごと

自分の思いを言葉に乗せて

やりがいとは

始まった闘い

昨日、隣の席の犬の態度や周囲の雰囲気をきっかけに症状が再発したと書いた。

今朝も気づけば涙が勝手に溢れていた。

日に日に家を出る時間が遅くなる。頑張っても、頑張っても体が動かない。

気力が起きない。決してサボっているわけではない。

けれど、何とか気力を振り絞り、今日も仕事に行った。

声を聞くだけで、姿が見えるだけで萎縮してしまう。

横も向けない。話し声も聞きたくない。こわい。理由などない。

嫌悪感を感じるのだ。また、何か言われるのではないか。常に不安に襲われる。

誰のために、何のために、私は働いているのだろう。

確かに、働くことは国民の義務である。しかし、どうしてこんな思いをしているの。

私にとって、この仕事をやる目的とはなに…。分からない。

 

”やりがい”とは何か

私にとって、教師という仕事にやりがいを感じたことは今まで一度もない。

また、この仕事が辛い。苦しい。とは何度も思うが、楽しいと思ったこともない。

では、何のために働いているのだろう。

年配の方、先輩方からは、「昔は〇〇だった。それに比べたら今なんて楽」とよく聞く。

ん??それは苦労自慢ですか?とひねくれた私を自分の中で問う。

こんなふうに言われると、今のこの状況で苦しんでいる私は”弱い”と間接的に言われているように、私は感じる。時代も状況も、何よりも一緒に働く仲間も違う。

何一つ同じことなんてないはずだ。それなのに、人と比べる。自分と比べる。

もっと言えば、私にとっては、今この状況が一番しんどいのである。

それを、「もっと辛いことがあった」なんて言ってしまうのは、頑張っている人に失礼ではなかろうか。

年配の方に言いたい。自分の辛かった過去の話をしまっておいてください。

ましてや、苦しんでいる若者に対して、「昔の方がきつかった」なんて言わないで。

その人の最大限の努力を否定してしまうことになってしまうから。

若者に言いたい。年配や先輩方からの比較なんて気にしなくていい。

「人と比べるな」という人が、どこかの誰かと比べているような世の中である。

人はとにかく、自分の立場を知りたい。自分自身につちて理解していきたい。

だから、人と話、人と比較をするのだ。

結局、誰と比較するかが大切である。

もし、比較をするなた自分が尊敬している人と比較した方がいい。

でないと、くだらない比較思考に落ちいってしまう。自分を傷つけないで。

 

話がそれた…

 

そう、結局は私にとって教師としての魅力もやりがいもまだない。

これから、生まれるのだろうか。

ある大学の先輩に言われた。

”やりがい”なんてものは、最初から持っている人はいない。

みな、手探り状態で仕事に取り組み、失敗するからこそ”やりがい”を見つけることができるのでは、と。

では、”やりがい”があるから働くのではなく、”やりがい”を見つけために働くということになる。

 

考えが矛盾しており、ループしてしまうが、私はとても納得した。

 

自分の中で納得のいく”やりがい”を今後も探していきたいと思う。

ただし、この仕事を続ければの話であるが…。