ねこのひとりごと

自分の思いを言葉に乗せて

変化の一年

遅ればせながらではありますが、新年の挨拶を…。

 

新年あけましておめでとうございます。

去年の年末から書き始めたブログではありますが、

今年も自分の思いと赴くままに書き連ねていきますので

どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

激動の予感

今年は、激動の1年となりそうです。

希望が通るかはさておき、職場、住居、家族などなど生活スタイルが大きく変わりそうな1年です。変化とはそれだけエネルギーがいるもの。

楽しみなこともある一方、ストレスを感じる今日この頃…

何かに押しつぶされそうです。

変化するときこそ、変化しないものを大切にしたいものです。

変わるものと、変わらないもの、これを見極めることが心の安定につながります。

 

始まった3学期

さて、学校はいよいよ3学期が始まっております。

学校の先生は長期休みがるように思われるが、それは人ぞれぞれ。

しかし、高校など部活動が盛んなところは、休みなく働く日々。

 

そんな中、去年の年末に関係が覚めてしまった犬さん。

今年は!というと、普通に話すことも増えたものの、やはり雰囲気が怖い。

 

向こうにも仕事に余裕がないのかもしれないが、明らかに雰囲気が悪い。

隣の席にいるだけで、息がつまる。

 

よく、「あと1か月だよ!(生徒がくるのは!)」「あと3か月だよ!(年度)」

と言われるが、あっという間かどうか決めるのは当人だと言いたい。

たとえ、1カ月でも、なんなら、たとえ1時間でも苦痛だと感じれば、その時間は地獄のように長い時間。

 

だから、その人のことを思ってかける言葉が、かえってその人を苦しめることがあることも理解してほしい。

 

自分ではわからないが、私の「適応障害」は治ったのだろうか。

治ってほしいと願いながらも、今の職場では治らないだろうと確信している。

症状は治まりつつあるものの、いよいよ始まった学校で再発しそうだ…。

 

あぁ、今後のことを考えると不安になる。

久しぶりに今度、通院する。先生とゆっくり話ができたらいいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

心に空いた穴

よく”心にぽっかり穴が空いた”という言葉を聞く。

多くの人は、その穴を埋めようと新しいことを始めたり、別の人に気持ちを向けようとしている。

 

私は『心に空いた穴は埋まらない』と思っている。

 

心に空いた穴

正確に言えば、心に空いた穴は、その原因となった人や出来事でしか埋まらない。

パズルのピースで考えてほしい。

一つのピースをなくしたとしよう。

もし、同じ形のものを見つけ、それで埋めようとしても絵柄が違えば完成しない。

心に空いた穴も同じではないだろうか。

だって、心に穴が空くほど、自分が大切にしていたことが他のもので代替できるはずもない。

 

傷は癒えるのか

怪我をしたとき、血が出る。それが、かさぶたになり、治癒する。

しかし、心の穴は治癒することはないと、私は思う。

ただ、怪我をしたときの血が止まり、かさぶたができているに過ぎない。

穴は空いている。だから、もし原因となる出来事に出会えば、その傷は痛む。

 

ただ、一つ言えることは、前を向こうとすることで相対的に小さくなることはある。

多くの経験をするということは、パズルのサイズを大きくしていくこと。

つまり、100ピースのうちの1ピースだった穴が、1000ピースのうちに1ピースになる。

穴は消えない。他の何でも埋まらない。

しかし、多くの経験をすることで、相対的に小さくすることができる。

 

だから、前向きな行動をすることは決して悪いことではない。

でも、勘違いしてはいけない。穴は消えないのだ。

それだけ、自分が大切にしてきたことなのだから、その穴も大切にしないと。

それはきっと辛い。苦しい。

けれど、そのなくした1ピースのおかげで新しい900ピースを見つけられたのかもしれない。

 

今、辛く、苦しい日々を過ごしている人。

あなたのその経験はきっと無駄じゃない。今は辛いだろうけど。

その経験で新しい、何かをきっと手に入れることができるはずなんだ。

だから、立ち直れないことや、未練も大切にしていこう。

そこでしか見つけられないピースがきっとある。

そして、前を向けない時間が長いほど、自分がそのピースを大切にできていた証拠。

一つのことをそれだけ、大切にできる人って本当に素敵ですよね。

 

 

 

こんなことを思いながら、今日も私は自分の心の穴と向き合い続ける…

 

ベテラン

”ベテラン”という言葉をよく耳にする。

職場でも、周りはベテランぞろいだから、などと言われることもある。

 

ベテランとは何か。

経験年数が豊富で、優れた技術を持ち合わせている人のことか?

そんな人、そんなに多くない。。

世に言うベテランとは、経験年数が長いだけの人のことを指すことが多い。

ただただ年数が長ければ偉いのか?すごいのか?

 

この考え方に私は疑問を呈したい。

 

量より質かもしれない。

年齢や経験年数だけで見ずに、その人がどんな経験をしてきたのか、その経験で何を得たのか、を見るほうがいいように思う。

 

年齢が高いから、年数が長いから偉いのではなく、その人の中身をしっかり見たい。

 

私は年齢以上に経験を活かせているだろうか。

人間として深みを増せているだろうか。

 

自分に問い続けよう。

 

空気

投稿が少し空いた。

本当は毎日更新を目指していたものの、色々とあった。

前回、症状が再発したと書いた。

やはり、あれ以来、気持ちが落ち着かない。

めまい、頭痛、食欲不振、息ぐるしさ、気力の低下、気分の落ち込み…など。

上げだしたらキリがない。

とにかく、その場から逃げなくては。

体調が悪くなり、原因を責める。でも、そもそも私に原因があるのか、と自分を責める。また、体調が悪くなる。悪循環である。

 

空気

学校、職場、趣味のグループ、この世界には色々なコミュニティがある。

そこでの人間関係がある。それぞれの場で見せる自分に違いがある。

きっと、みんなそうであろう。

ただ、ここで共通していることがないだろうか。

それは、その場の空気感で演じる自分を決めたり、多くの選択をしていないだろうか。

友達の前、家族の前、大切な人の前、職場、それぞれの空気感がある。

どれが、本当の私なのだろう。と不安になることもある。

もっと言えば、本当の私はこんなはずではないのに!と心で叫びながら、その場の空気に合わせてしまう。

「NO」とは言えない空気感。私はこれが一番嫌いである。

特に職場でそれをよく感じる。有無を言わせぬ圧力。

その圧力をいつ感じるかは人ぞれぞれであろう。

誰なのか、人数なのか、年齢なのか、性別なのか、立場なのか、色々。

でも、その人が圧を感じたのだとしたら、それは正しい選択になっていない。

ある人は「断る勇気が必要だ」と声を大きくして言う。

確かに、そうであろう。「断る」ことができなければ、生きていけない。

自分で自分の首を絞める。

もしくは、できもしないことを引き受け、周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。

ただ、一つ疑問である。どうして、断れない本人を責めるのだろう。

断れない空気を作っているかもしれないと、どうして周りのことをみないのか。

逃げなのか。周りに要因を持っていくのは逃げなのか。

では、「若手が率先して~」「こういうときは~~」といった空気ももういらないね。

「断ることが大事だ」と責めてくる人に限って、悪しき慣習を引っ張る。

空気を読むことは確かに大切である。

ただ、空気にばかり振り回されている私たちはなんて窮屈なんだろう。

もっと自由に、自分の意見を出せる世界になればいいのにな。

 

自由と規則

ただ、規則がないことはむしろ不自由だと私は感じる。

なんでもありの世界は何もなりたたない。

みな自己中心的な発言や行動をとれば、なにも成立しない。

だからこそ、自由を手に入れるためにもルールや規則は必要だ。

目に見える、公平な規則。この上で初めて自由が生まれる。

これが一番大事である。空気は目に見えない。

もしかすると、自分と相手では感じている空気が違うかもしれない。

一人ひとりの常識や価値観は違う。

その違った人たちの集まりが生み出す空気感である。

同じはずがないのである。あくまで感覚なのだから。

だからこそ、壊れやすく、大切にしなくてはいけないときもあるのかもしれない。

でも、それは自分を殺してまですることではない。

まずは、自分を守ることが一番大事だ。目に見えるものをしっかり守ろう。

みなが同じルールに従って。

 

明日も…

さて、明日も仕事である。

ただならぬ空気感を感じながらの仕事は苦痛でしかない。

気持ち悪くなりながらも耐えるしかないのか…。

友達たちも頑張っているのだから、私も頑張らなくては…。

みんな苦しんでいるのだから。私だけではないのだから。

ここは踏ん張らないといけないところだろ!と自分に発破をかける。

 

あ。そうか。

これも、空気感だ。周りが~~だから、自分も。なんて。

人と比べなければ、なんて生きやすいんだろう。

でも、人と比べて傷ついて、感情を揺らしているのも自分自身。

これも私自身の特徴なんだね。

いつか、自分のことを笑って受け止められる日がくれば、それが私自身の呪縛からの解放になるのだろう。

 

やりがいとは

始まった闘い

昨日、隣の席の犬の態度や周囲の雰囲気をきっかけに症状が再発したと書いた。

今朝も気づけば涙が勝手に溢れていた。

日に日に家を出る時間が遅くなる。頑張っても、頑張っても体が動かない。

気力が起きない。決してサボっているわけではない。

けれど、何とか気力を振り絞り、今日も仕事に行った。

声を聞くだけで、姿が見えるだけで萎縮してしまう。

横も向けない。話し声も聞きたくない。こわい。理由などない。

嫌悪感を感じるのだ。また、何か言われるのではないか。常に不安に襲われる。

誰のために、何のために、私は働いているのだろう。

確かに、働くことは国民の義務である。しかし、どうしてこんな思いをしているの。

私にとって、この仕事をやる目的とはなに…。分からない。

 

”やりがい”とは何か

私にとって、教師という仕事にやりがいを感じたことは今まで一度もない。

また、この仕事が辛い。苦しい。とは何度も思うが、楽しいと思ったこともない。

では、何のために働いているのだろう。

年配の方、先輩方からは、「昔は〇〇だった。それに比べたら今なんて楽」とよく聞く。

ん??それは苦労自慢ですか?とひねくれた私を自分の中で問う。

こんなふうに言われると、今のこの状況で苦しんでいる私は”弱い”と間接的に言われているように、私は感じる。時代も状況も、何よりも一緒に働く仲間も違う。

何一つ同じことなんてないはずだ。それなのに、人と比べる。自分と比べる。

もっと言えば、私にとっては、今この状況が一番しんどいのである。

それを、「もっと辛いことがあった」なんて言ってしまうのは、頑張っている人に失礼ではなかろうか。

年配の方に言いたい。自分の辛かった過去の話をしまっておいてください。

ましてや、苦しんでいる若者に対して、「昔の方がきつかった」なんて言わないで。

その人の最大限の努力を否定してしまうことになってしまうから。

若者に言いたい。年配や先輩方からの比較なんて気にしなくていい。

「人と比べるな」という人が、どこかの誰かと比べているような世の中である。

人はとにかく、自分の立場を知りたい。自分自身につちて理解していきたい。

だから、人と話、人と比較をするのだ。

結局、誰と比較するかが大切である。

もし、比較をするなた自分が尊敬している人と比較した方がいい。

でないと、くだらない比較思考に落ちいってしまう。自分を傷つけないで。

 

話がそれた…

 

そう、結局は私にとって教師としての魅力もやりがいもまだない。

これから、生まれるのだろうか。

ある大学の先輩に言われた。

”やりがい”なんてものは、最初から持っている人はいない。

みな、手探り状態で仕事に取り組み、失敗するからこそ”やりがい”を見つけることができるのでは、と。

では、”やりがい”があるから働くのではなく、”やりがい”を見つけために働くということになる。

 

考えが矛盾しており、ループしてしまうが、私はとても納得した。

 

自分の中で納得のいく”やりがい”を今後も探していきたいと思う。

ただし、この仕事を続ければの話であるが…。

症状が再発か

気持ちが落ちる日

今週の月曜日にとてもHappyなことがあった。

これは人生で一番幸せな時間だ!と確信した日。

だから、今週は幸せな気持ちで過ごせると思っていた。しかし、その期待が余計に自分の首を絞めている。今日は辛くて仕方がない。

 

昨日のブログにも書いたが犬さんからの攻撃が止まらない。

冷たい態度に嫌味、目も合わせなければ、直接話しかけることすらしてこない。

私に伝えるときも、わざと別の人に用件を伝えて間接的に伝えてくる。

これまでは、〇〇ちゃんと呼んでいたところを急に呼び名を変えてくる。

一体、私が何をしたというのだ。どちらかと言えば、不正を働き、理不尽にキレたのは向こうなのに…。今日は朝から限界だった。同じ空間に居たくなかった。

隣に座っているだけで胃痛。食欲もなく、昼食はおにぎりを一つ何とか詰め込んだ。

それなのに、全くお腹が空かない。頭が働かない。

本当に限界だった。もう、職場全員が敵に見え始めた。

私は誰を信じたらいいの。こわい。周りからの視線がこわい。どう思われてるの?

定時を過ぎ、早く一人になりたくて、早く職場から出たくて、仕事を持ち帰宅。

やっと離れられたという安堵とともに、抑えようもない怒りが湧いてくる。

「どうして、私が…。」そんな考えがぐるぐると頭をめぐる。

吐き気が止まらない。そして溢れでる涙。

持ち帰った仕事もほとんど手つかずで、何もやる気が起きない。

そんな自分をまた責める。どうして…、どうして…、どうして…

 

止めらない思い

悪循環が止められない。

いや、止まらないのだ。どうしても自分を責めてしまう。追い込んでしまう。

私は責任感が強く、強い芯を持って仕事をしていると自負している。

そのため、曲がったことが許せないのだ。いわゆる完璧主義である。

実際にできる、できないは別として、考え方が極端であることは自覚している。

いつも、何かを考える際に0か100になりがちだ。

だから、できない自分が大嫌いだ。

よく犬に言われることがある。

「自己肯定感は低いのに、自己効力感は高いよね。」と。

なんの嫌味だ!と言い返したくなるのだが、間違いだと否定しきれない自分もいる。

私は自分のことが大嫌いだ。何度も死のうと考えたことさえある。

そのため、自分を好きになれない。

しかし、これまでの人生、人並み以上に努力してきたのも事実である。

寝る時間、遊ぶ時間を削り、勉強と練習に明け暮れた。

だからこそ、得られた経験は大きい。

人に自慢したいとは思わないが、恥ずかしい成績・戦績ではない。

だから、「私ならできる。」と思うこともあるし、「それ相応の仕事を任せてほしい。」と認めてほしくなるときも多々ある。

だからこそ、できない自分、頑張れない自分が余計に嫌いになるのだろう。

そう。悪循環である。手を抜くことを覚えなければ潰れてしまう。

分かっているけれど、それができない。自分の気持ちをコントロールしきれない。

これが”適応障害”の症状の一つである。

もちろん、体調面に表れてもいるが、気持ちのコントロールがうまくできない。

どんどんネガティブ思考になっていく。止められない。

すると、大切なことが決められなくなっていくのである。

辛い。苦しい。助けてほしい。涙ながらに思う。

 

再発のきっかけと闘い

あぁ、ここ2週間ぐらい症状も落ち着いてきていたのにな。

また、再発してしまった。本当に小さなきっかけだったのかもしれない。

けれど、”適応障害”を抱えている人たちは繊細で小さな変化にも過敏に反応する。

だから、「こんなことで、」と思われるのが、とてもつらい。

でも、本人にとっては大きな出来事なのだ。

 

症状が出るきっかけは、誰かのちょっとした行動かもしれない。

もしくは、誰かの何気ない一言だったのかもしれない。

しかし、覚えておいてほしい。

一瞬のきっかけで、本人たちの苦しみはしばらく続く。

どうしたら落ち着くのか、先が見えない。自分でも分からないものとの闘い。

終わりが見えないものとの闘いだ。不安がよぎる。明日、仕事へ行けるのか。

まだ、仕事へ行けなくなったことはない。

けれど、いつ、行けなくなるかは分からない。明日は大丈夫?そう自分に問う。

「逃げた」「我慢が足りない」

そう思われたくなくて、必死に自分自身を奮い立たせる。

そして職場に着けば、貼り付けの笑顔で一日を過ごす。

隣からのプレッシャーに、私はいつまで耐えられる?

考えは止まらない。

辛い。辛い。辛い。私がいる意味はありますか。

今日が長い闘いの始まりにならないことを祈って、明日を迎えるとしよう。

ああ、明日なんて来なければいいのにな。

 

 

 

自分軸と他人軸

普通に生きる

私はこれまでずっと普通に生きたいと願っていた。

では、”普通”とは何か。”常識”とは何か。

ふと、この疑問が頭をよぎる。

 

今日、こんな出来事があった。

隣の席の犬さん。40代半ばの独身女性だ。

とてもヒステリックなところがあり、突然ものに当たったり、キレたりする。

私の適応障害の原因の一人でもある。

関係が良好のときは、頭をなでたり、隣からつついてきたりと距離が近い。

同性とはいえ、セクハラと言えばセクハラである。

そんな犬さんが、昨日から理不尽な要求を繰り返し、今日突如キレてきた。

しかも、生徒のいる前で。本当に信じられなかった。

その後もずっと不機嫌。私に対し、文句を言ってきたのだ。

さすがの私も思うところがあり、自分の思いを伝えたが、伝わらない。

場の空気も悪くなってきたため、私が謝りその場を収めた。

犬さんが退散してから、周囲に場の空気を乱したことを私から謝罪。

担任として自分のクラスの子がかわいいのは分かる。

しかし、ルールは犯してはいけない。

そう、ルールは絶対だ。

”規則”や”決まり”がどうではなく、自分のクラスの生徒が大切だという。

なんのための”決まり”なのだ。

 

人は一人ひとり考え方も価値観も違う。そのため、その人によって常識は異なる。

その人の常識、その人の普通がある。

だからこその優しさも、人間関係も生まれるのだろう。

しかし、違うからこそ最低限の規則や決まりがあるのではないだろうか。

そこを否定されてしまうと、何も始まらないし、生まれない。

お互いにいい気分はならない。

 

ものさし

人はみな自分のものさしでしか物事を判断できなということ。つまり、自分軸。

自分のものさしで他人を測ろうとしても測れるわけがない。

なぜなら、その人のものさしがあるからだ。

だから、まずは一人ひとり自分軸があり、他人軸とは交わり合わないということを理解しなければない。

 

常識がないなあ

普通じゃない

なんて言葉をよく聞く。実際、私も周りに対して思うこともある。

しかし、そんなときにふと不安になる。

もしかしたら、私も普通ではないのではないだろうか。

いや、まぎれもなくその通りだ。

どこかの誰かの中で、私は非常識な普通ではない人間なのだろう。

つまり、自分の常識は誰かの非常識であり、私の普通は誰かの異常なのだ。

分かってはいても、納得はできないときがある。

だけど、少しずつでもいいから自分とは正反対の人を受け止めよう。

非常識だと、異常だと、私のことを見ている人のことを受け入れよう。

 

こうして、私は少しでも成長することができるのではないだろうか。

 

しかし、それにしても辛いものがある。

どうして理不尽に言われつづけなければならないのだろう。

それが社会だと言えば、簡単なのだが、何か変わらないだろうか。

 

自分軸以外にも、他人軸の視点を持てる人が増えることを切に願う。

 

もっと、落ち着いた大人な人が増えますように。

みなさん、ともに成長していきましょう。